マイセン 【Bフォーム・ブリュードロワ】 コーヒーC/S+19cmプレート meissen コーヒー カップ ソーサー
サイズ:カップ直径10cm高さ8.5cmソーサー直径16.5cm/プレート14cm 素材:陶磁器 ※モニターの発色の具合によって実際のものと色が異なる場合があります。
ブリュードロワ(王者の青) フランスはセーヴルで発明された王家禁色で 美の権化ポンパドール夫人が命名。
マイセンでは これに次ぎます。
夫人は 1744年にはその美貌がルイ15世の目に留まり ポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられて夫と別居し、1745年 正式に公妾として認められた。
ヴァンセンヌ窯を自分の別荘地のセーヴルに写し 王30%陶工のグラヴァンを始めとする7人の民間人70%の株式会社セーブル窯を立ち上げました。
彼女のあくなき 美の追求は ついにはセーヴル窯の存亡の危機を招いたほどです。
民間人7人は 王に願い出て「あなたの寵姫が 仕出かした事ですから 責任を取ってください」ということでセーブルは放蕩王ルイ15世の王立窯になりました。
夫人は 湯水のように金を使い(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅)などあちこちに邸宅を建てさせ やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。
ベッドの上でフランスの政治を牛耳った「影の実力者」といえる。
ポンパドゥール夫人の有名な言葉は「私の時代が来た」。
フランソワ・ブーシェ(1703年 - 1770年)は、フランスの画家、素描家、エッチング製作者。
ロココを代表する画家であり、上流社会の肖像画や神話画などを描いた。
多作家として知られ、生涯に1000点以上の絵画、少なくとも200点の版画、約10000点の素描を制作し、壁画装飾、タピスリーや磁器の下絵制作、舞台デザインの仕事をこなした。
18世紀フランスの美術愛好家P=J・マリエットはブーシェの才能を高く評価し、「筆を手にして生まれた」、すなわち画家となるべく運命づけられた人間で、「我らがフランス画派にとっての大いなる名誉」であると絶賛している。
1756年には、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータと通じ反プロイセン包囲網を結成した。
これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。
特に宿敵オーストリアとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットがフランス王室に嫁ぐこととなる。
夫人は美貌ばかりでなく ヴォルテールなどの啓蒙思想家と親交を結び フランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった。
30歳を越えたころからルイ15世へのお褥ご辞退となったが、代わりに息のかかった女性を紹介した。
ルイ15世は夫人が42歳で死ぬまで寵愛し続けたという。
鹿の園を建ててルイ15世好みの女を住まわせたというが、いわゆるハーレムのようなものではなかったという。
当時の貴族の女性はこぞってポンパドゥール夫人のファッションを真似、その髪型をポンパドゥール と呼ぶようになった。
アンクルスタシオン(金象嵌) このギルディングは 金彩を瑪瑙で磨き上げて ブライトの金にした後 特殊ブラシで金彩をこそげ取り マット状の金との 変化を演出しています。
3人の天才ヨハン-5 1人目はヨハン・フリードリヒ・ベトガー(欧州磁器の父) 錬金術師にて ヨーロッパに 東洋の白磁を もたらした天才です。
2人目は ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト,天才絵付師です。
3人目は ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー,天才造形師です。
1817 緑色の染付顔料 酸化クロム発明 1827 グランツゴールド 金彩を完成 H・G・キューン 1833ごろから 銅版転写染付・印判手 1839 焼成燃料に 石炭 1852 虹色のシラー彩(ラスター) H・G・キューン 1853 蒸気機関 採用 1860〜1865 新トリービッシュタール工場へ移転 18世紀、中国人により編み出された泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立した 此の世のものとは思えぬほど 美しいパテ・シュール・パテ技法を 1873年ウィーン博覧会で目の当たりにした ハインツェ博士は 大いなる刺激を受け 永い研鑽の末 1878年にマイセンも会得。
これは 当時 セーヴルの後塵を 拝し出していた マイセンにとって 一大事件でもありました。
マイセン・翠の月931689 パテ・シュール・パテ 金箔額装磁板画 当店所蔵 余談ですが パテ・シュール・パテ技法をセーブル時代のルイ・ソロンの創作と思っておられる方がプロ?でも殆どなので その間違いを手短に説明します。
殆どの業者さんが 仏ブルボン王朝の放蕩王ルイ15世が 寵姫ポンパドール夫人の美の追求に湯水のごとく大枚をつぎ込み 美の権化と詠われたセーヴルの名声にあやかり あたかもセーヴル在籍のルイ・ソロンがパテ・シュール・パテ技法を創作したかに箔付けをして高価を詠います。
実際は セーブル窯パテ・シュール・パテ妖精図蓋付飾壺をご覧になればお判りのように 元祖 中国泥彩画と余り変わりません。
マイセン・翠の月 パテ・シュール・パテをご覧になればお判りのように 発展開花は20世紀になってからですが もうこの域になると 本家中国泥彩画をはるかに凌駕しております。
セーヴルに追い抜かれた恐怖からとはいえ マイセンのハインツェ博士でも セーヴルを過大視されたほどですから 無知な業者にあっては 無理からぬ思い込みかもしれません。
山高きが故に 貴からず。
セーヴルが ルイソロンが故に 高貴なのではありません。
多くの先史時代や産業革命前の時代の文化で、スリップウェアが作製されている。
最古のものは紀元前5000年の古代中国や古代中東で作られた。
その後、アフリカの多くの地域、南北アメリカ大陸の先住民の間や、初期の朝鮮半島、ミケーネ文明、古代ギリシアの陶芸、イスラームの陶芸、ヨーロッパなどで建築の壁の装飾に使われたズグラッフィート, 17〜18世紀のイギリスでの重厚な陶器スリップウェアの釉薬と組み合わた 戯画風トフト皿や日本人好みの櫛目文にパテ・シュール・パテの萌芽が見られ もちろんアンダーグレースです。
ヘレンドでも 1860〜1870年ごろには スリップ状磁土を盛り上げ鱗文(トゥッピーニーの角笛)を加飾しております。
ただ ソロンの創作ではないが より絵画的表現への進歩 ハインツェ博士から L・シユトルムに至り ついにはG・アーノルドに至る芸術への昇華 これがすばらしいのです。
洋食器愛好家には 高価を詠う宣伝にまやかされず 美術品を正しく理解・鑑賞してもらうために 中傷誹謗の恐れを 敢えて言わせてもらいます。
豆彩 闘彩 五彩 青花染付 粉彩 雑彩 剔花 泥彩画etc.まだまだ 中国は実に懐深い。
ミントンは 大陸の王立窯 特にフランスのセーヴルから 工芸家を招聘して 腕に磨きをかけておりました。
工場内では 英語に引けを取らないぐらいフランス語が飛び交っておりました。
1871年 ルイ・ソロン(18世紀、中国人により編み出された泥彩画技法が 1850年頃、ヨーロッパに伝わり 1860年代にマリク・ルイ・ソロンによってセーヴルでも確立したパテ・シュール・パテ技法)を招聘して 美しいパテ・シュール・パテ技法を マイセンに先駆けて 自家薬籠中のものにして 更に 世界の王侯貴族をうならす 貴族趣味の芸術品をものにした 「パテ・シュール・パテのミントン」の名声は セーヴルを 出し抜くほどでした。
) 1918 第1次世界大戦末期 ザクセン王国瓦解 マイセンは 国立窯に売り切れ 円安の中 入荷しました。
今回 新入荷のお披露目を兼ねて 二昔お熟成19cmプレートとセットで26周年謝恩価格!!! ピカピカの 新品です。
現品 即納 #15シェープ アンクルスタシオン(金象嵌) このギルディングは 金彩を瑪瑙で磨き上げて ブライトの金にした後 特殊ブラシで金彩をこそげ取り マット状の金との 変化を演出しています。
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